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京都新聞 朝刊 文化 「私のモノがたり」より
劇団「二人だけの劇場 セザンヌ」が今年、結成30周年を迎えた。演者と観客、二人だけで成立する世界。作家藤本義一さんが付けた劇団名は、劇団の志そのもの。
野外で、劇場で、せりふと身体だけの表現を追求し、京都でも数少なくなった新劇の灯を誠実に守る。主宰の女優遠藤久仁子さんを支えてきたのは、応援者や先人の言葉
だという。なかでも、詩人で児童文学作家の故山本和夫さんのはがきは、心のつえだ。赤い鳥文学賞受賞の山本さんは、劇団に「からすは天才である」など5作を書き下ろした。そのはがきは多くの励ましの文面で、観音像や花など味わいのある自筆の絵が添えられている。「苦しい時に何度も救われた」と、大切に額に入れる。東京に憧れた時は「東京に行くのではなく、東京から人が来るような俳優になれ」と諭されたという。
「山本先生は、『戦争中、敵に捕まったとき自分は詩人だと言ったら、助けてもらえた。だから、僕は生涯、戦争で亡くなった人の思いも込めて文学をやっていく』とおっしゃっていた」。遠藤さん自身、一生をかけるものを考えたとき、演劇しかなかった。「遠藤君、人間は美しく生きなければいけない」ともよく言われた。「芝居は自分。人生の哲学や生き方が表れる。その『自分』は、過去に出会った人たちの蓄積でできているんです」。自宅や楽屋には新劇の大俳優、故宇野重吉さんや故杉村春子さんの
舞台写真のほか、芝居の演出、映画も一緒に手がけた映画監督の故高林陽一さんゆかりの品など、遠藤さんを形作ってきたものが飾られる。
5年前から京都南区のビルの2階を借り、けいこ場として使っている。4~7月、9~12月の月末にはアトリエ公演を行う。研究生も12人に増えた。秋に新作演劇と、短歌をモチーフにした朗読を公演する。 この30年で演劇を取り巻く状況は大きく変わったが、新劇にこだわる。「体の中から発する新劇の言葉は、人の心に刺さるんです
」。新劇の灯は消さない、と誓う。
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2012年9月20日(木) 記者 河村 亮 |
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京都新聞「凡語」 2011年11月24日掲載分
京都市南区東九条、本屋の2階。小説や詩集が並ぶ部屋が稽古場兼劇場だ。照明が落ちて一人芝居「花の氷柱」が始まった。女優遠藤久仁子さん(57)が、戦後を生きたある女性の半生を語り出す。
口べらしのような結婚。働き、子を養い、焼け跡に家を建てた喜び…。役を生きる遠藤さんの力ある声に引き込まれ、往来の音が遠くなる。今秋、創立30周年を迎えた劇団「二人だけの劇場セザンヌ」の記念公演を見た。
遠藤さんは19歳で、演劇を志して京都に来た。俳優浜崎満さん(77)と旗揚げた劇団は、円山公園での無料公演を柱に据えた。役者は演じる意志さえあれば場所を問わず、客も気軽に文化に触れてほしいとの願いからだ。
九州の炭鉱の民話を基にした「ひとくわぼり」の地方巡演や寺の本堂での子どもに贈る芝居を地道に続けた。「蜘蛛(くも)の糸」「ベロ出しチョンマ」など有名作に加え、隠れた短編も発掘して演じた。
簡素なセット。だが、言葉を大切にした舞台に心打たれた人は多い。苦しみや愚かさを背負いつつ、幸せを願わずにはおれぬ。そんな人間の業を演じたい。劇団員の死などを越え、セザンヌは31年目の日々を歩み始めた。
公演「花の氷柱」は25~27日、12月23~25日も上演される。遠藤さんのせりふを通じて、観客は世代を超え、登場人物に自分を重ねるだろう。「二人だけ…」の劇団名には「役者と観客。わたしとあなた」の意味が込められている。
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◆ 僕の友達
新劇俳優 遠藤 久仁子 ◆ |
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映画作家 高林 陽一
(2012年 春 病床にて) |
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「人踊らざれど 我 笛を吹く」
私がこの衝撃的な言葉に出会ったのは新劇女優を30年続けている遠藤久仁子の主催する「劇団 二人だけの劇場 セザンヌ」のアトリエであった。現在はチャカチャカつまらない笛を吹いて多くの人を、人生の何たるかを忘れさせる表現者の多い中で、私は人のために吹く笛でなく、孤独な人生の道程を一人、笛を吹き、孤高の道を歩き続けてきた、その想いのすべてがこもった笛の音に、私は魂しいからゆさぶるような衝撃を受けたのである。
私も60年近く映画を作り続けてきたが、それはむしろ他人の為にではなく、自らの魂しいの行く末を誠実に見届けたいと言う信念から、遠藤久仁子さんと同じ笛を吹き、吹き続けた者の共通したスタンスをそこに見い出して、遠藤久仁子という女優の現代ではもはや稀有になったピュアな人生とその生きる信念に私は深い感動を覚えたのである。
思えば、遠藤久仁子の一人芝居と言ってもいいような遠藤久仁子の世界は、人がどうであれ私の最も愛する世界なのである。「突然ですが、映画を創っていただけないでしょうか」これが私と遠藤久仁子さんの最初の出会いの言葉であった。私は最初は彼女が言っている言葉の意味がよく判らなかった。だが時間を重ねて話しているうちに、何故が自分の中にふつふつと、この遠藤久仁子さんの言っている「映画に一緒に乗っても良い」と。ことに遠藤さんの、次の言葉は私の心を振るがした。
「京都には、貧しい生活を背負ってそれでも、尚演劇の道に歩んでおられる方が沢山おられます。私はこの人達の元気な姿を映像に残しておきたい。演劇は幕が降りればそれで終わりですが、映像は色々な形で後世に残って行きます。だからこそ、私は舞台を本当に貴重なものと考えておりますが、只一本ぐらい今の京都の新劇俳優達の苦労を映像で残したいと考えました。映画の内容は一切問いません。監督の思われる通りの映画を作っていただきたいのです。」
私は、この時の遠藤久仁子さんのキラキラした美しい瞳の輝きを見て、何故か私もこの映画に参加しなければいけないような気持ちになった。これがもし、劇団売名のアチャラカ映画なら私は一言でお断りしていただろう。それ程、この時の遠藤久仁子さんの迫力すごいものがあった。
こうして、遠藤久仁子さんは、一人の映画プロデューサーとして「愛なくして」と言う映画を生み出したのである。
(この続きは高林監督7月15日ご逝去のため、見ることができません) |
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新劇女優、遠藤久仁子 |
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映画作家 高林陽一 |
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一口に三十年と云っても、一人の人間の、一日一日の積み重なりの重さを考えれば、それは容易な時間ではない。勿論、宇宙的時間の中で見れば、人の一生は、一瞬の星の、またたきにも充たない短かく、儚いものであることに違いはない。だが、一人の個人が経験して行く一日は、時には途方もなく長い時間であることにも、違いない。ましてや、一つの志を持って迎える一日一日の重さは、地球の重さに匹敵することだってある。
遠藤久仁子という、一人の新劇女優が送った三十年を想う時、それは、他のいかなる女優にも、真似のできない、生きざまであった。それ程、遠藤久仁子の「表現活動」に対する唯一無二の信念は激しい。その確固たる彼女のスタンスが「円山野外公演」を基本とした凡ゆる「表現活動」を支えて来た原点と、私は考えている。毎月一回、第二土曜日の午後、京都八坂神社の奥にある円山公園の、しだれ桜前で、彼女が続けて来た表現活動は、とうてい、誰も真似することは出来ない、一つの「行」といってもいい行為であった。私は表面的には、優しく、どんな小さな作品であっても、いつも、彼女の「表現活動」の中に、人間の業を見てしまう。私も五十年余り、曲りなりにも映画の世界に生きて来た。色んな俳優さんとも、仕事をしたが、いわゆる芸能界という世界とは、最も遠い、いや、その対極ともいうべき場所に、自らの「女優」としての世界を築きあげて来た彼女の精神力に、深甚の敬意を表する。器用な役者、巧い役者、大根役者などという、世俗的物指しでは、とうてい計ることの出来ない、深い志を、私は、遠藤久仁子の中に見る。殊に、昨年、今年と彼女が体現して来た、真田正子 作「花の氷柱」(一部・二部)は、遠藤久仁子の真骨頂といってもいい程の感銘を与えた。今年で劇団創立三十周年を迎えるという。これから先も、十年、二十年と遠藤久仁子は、孤高の女優として歩み続けるに違いない。
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檄 |
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簡素な舞台装置を背にして、ただ一筋のスポットライトが演じる人の科白<しぐさ>を追う。
時折、劇的な言葉が聞こえてくるけれど、客席の視線・聴覚は唯一点にまとまって、演者とともに感情の波動が生まれる。この舞台の創造者が、稀有の舞台女優遠藤久仁子、その人である。そして演じられている「台本」の大半が著名な作家の、詩であったり、童話であったり、文学そのものであったりの、文学表現の分野である。
遠藤久仁子の身体表現は文学表現世界の世界に(次元)に挑戦して彼女独特の舞台作品として生まれる。ひとり芝居と云う名で紹介されたり、「語り」と云う名であったり―でいづれも、ひとりの演者「技」である。それ故に煩雑な問題があり、至雑な表現形式が巌然として存在している。―にもかかわらず無自覚なひとり芝居が、興味本位な形でマスコミ風潮にのせられている。
その風潮を外に見て何らの関心も持たず、遠藤久仁子の舞台のありようは変わることなく上演される作品の吟味過程は、峻烈で、毅然たる根本の創造精神は不動である。
役者を唯一の伴侶とし、友とし、道づれとして、この六十一年間、演出修行の旅を続けてきた私は、幾多の佳き役者と出会うことが出来た。そのお陰で私の生命力の灯も燃え続けている。
遠藤久仁子の今日の芸風の出発点は、私の劇団「すみれ座」であった。映画人の多かった劇団組織の中での多事多難な歩み出しは心労多くしながらの修行であったと思う。その後は名優浜崎満との運命的な出会いが、花咲かせて、散らぬ珠玉の如き舞台へと転じて、これから先も光輝くであろう。
そして私もまたこの舞台を客席から端然とみつめながら心では叫ぶ「久仁子!頑張れ!」―と生命の灯を燃やし続ける。
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映画監督 小野登 1996年4月 |
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