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撮影・上映日記はこちら
  

出演者・スタッフ
 
スタッフ 出演者名(出演順)
   


 *撮影・上映日記*
  2002年3月25日(月)
ししくフリースペースにて出演者全員で最終リハーサルを行います。
撮影は4月からの予定です。  又、新しい情報が入り次第報告いたします。
 
  2002年4月4日(木) 快晴
フイルムテストを兼ね、桜風景撮影。例年になく早い桜の開花に少々頭を悩ませながら、美しい桜の花々と出逢うことができ、
関係者一同ホッとひと安心でき、撮影初日を終了致しました。
 
  2002年4月25日(木) 雨のち晴
午前中 JR嵯峨嵐山駅にて撮影開始!
俳優 藤沢薫 出演シーン
   その後、午後より田園風景撮影。 さわやかな春風の中、夕刻、無事撮影終了。
 
  2002年4月27日(土)  晴れ
午前〜午後、二人だけの劇場セザンヌ事務所 件 自宅内にて撮影、母と子の食事シーン。
俳優 遠藤久仁子、大平由佳出演。
撮影機材に囲まれ足の踏み場もない中、映像スタッフの皆さんの奮闘に感激!!
午後より、場所を宇治折居台に移しマンション内 夫婦シーン
俳優 塩見順一、椋木春菜 出演。大西和彦宅 撮影協力。
午後10時をまわり 一同やっと夕食になる。
撮影終了の安堵感にて 一同もくもくと食事をする。まる1日中の撮影のなか、スタッフの皆さんのご苦労に感謝する。
 
  2002年5月9日(木)  晴れ
京都上七軒ロケハン(ロケ地下見) ロケ地決定ののため、西陣署に撮影許可願い
 
  2002年5月12日(日)  晴れ
廃屋ロケハン  滋賀県梅ノ木町北橋宅 ロケ地決定
 
  2002年5月19日(土)  くもり
廃屋ロケーション
出演 浜崎麿吉、遠藤博圭。
滋賀・梅ノ木町 北橋宅 藁葺きの昔ながらの古風な建物内にて撮影。軒下の3個のつばめの巣が印象的であった。
静かなたた住まいに日本の原風景をみる。
 
  2002年5月20日(日)  雨のち晴れ
昨日より降り続く雨のため、ロケーション中止の予定であったが、午後より雨があがり撮影開始時間を午後3時に変更し予定通り撮影に入る。
京都上七軒近くの原監督の自宅を借り原監督の自宅前・道路・風景上七軒の撮影に入る。
出演 橋本 団、遠藤博圭、吉井多美子
道路上にて野撮影のための車止め、人止め等田舎でのロケとは違い困難も多かったが京都の古風な風情が一同の疲れをいやしてくれる。
午後10時撮影終了。
 
  2002年6月13日(木) 晴れ
常寂光寺 ロケハン
高林・としおか・秋吉・長谷川・遠藤 参加  ロケ地に決定
 
  2002年6月21日(金) 晴れのち曇りのち雨
京都常寂光寺ロケ  am9;00現地入り
出演 浜崎麿吉、竹橋団、稗田邦隆。
20日、撮影予定であったが、雨のため21日に変更。NHKの番組撮影と重なりam10;00ロケ予定をam11;45撮影開始。
もみじの美しい静かなお寺である。階段撮影シーンが多く重い機材を運ぶスタッフの方々に頭が下がる。又、京都新聞社 文化部 井上さんにロケの取材におこしいただき大変有り難い。共に同志社大学学生さん、国本君達に応援に来ていただき皆さんの励ましの心がとても嬉しい。暑中の中、本堂付近の爽やかな風が関係者一同の疲れを癒してくれる。pm6;00 撮影終了
 
  2002年6月22日(土) 晴れ
西京区大原野 味田医院 撮影 am9;00現地入り
出演 藤沢薫、木元としひろ、遠藤久仁子、坂本剛、米澤梢。
昨日にひき続きのロケである。関係者一同の疲れが気になるが予定通り撮影開始。医院では出演者、ロケーションが多く、その都度 照明の変化が大変であるが一同黙々と自分の仕事をこなし、医院内風景に変化がついてくる。
pm10;00撮影終了。味田医院の味田保彦先生、関係者全員の映画にかけるエネルギーに驚いておられた。又、大日本スクリーン 加老戸さんが応援におこしいただき陣中見舞いの栄養ドリンクがとても有り難かった。又、撮影終了まで飲む事のできない陣中見舞いのビールを横目で見ながら、本日の全撮影シーンをこなしていった。帰宅後のビールが美味しい!!
 
  2002年7月25日(木) 晴れ
am9;00より 神社ロケハン
このところ大変な猛暑が続いている。小浜にひき続き神社ロケハンの1日である。滋賀・京都で3件の神社を見て回るがイメージに合う神社に出逢えずpm4;00劇団事務所に帰宅。今後のスケジュールの話し合いで1日終わる。蝉の鳴き声と共に夏本番を迎える。 
 
  2002年8月4日(日) 晴れのち曇り・雨のち晴れ
am9;00より 常寂光寺風景撮影
5月撮影時にはなかった大きな蓮の花との出逢いが印象的である。
am11;00移動 岡崎付近バス停撮影
出演 坂本剛
日曜日にもかかわらず路上での撮影であるが人通りが少なく助かった。長く続く塀とぽつりと立っているバス停。蒸し暑い中スタッフの声が響く「ハイ 本番!」バス停シーン撮影終了。にわかに突然の雨、関係者一同ほっとする。元気がくずれそうである。次の撮影場所に移動。小雨が降ってきた。
劇団事務所にて皆で昼食をとり雨の上がるのを待つ。pm3;00 撮影再開。関係者全員汗だくの中、本日の撮影終了。
大病院付近撮影シーンである。後の冷たい飲み物は極上の味であった。
 
  2002年8月16日(金) 晴れ
am11;00〜pm3;00  大阪ビジュアルアーツ専門学校内録音室にて
アフレコ出演者 浜崎麿吉、遠藤久仁子、稗田邦隆、大平由佳、米澤梢
連日の猛暑の中、大阪も大変な猛暑である。肌はジリジリ焼けてくる。大阪駅よりビジュアルアーツ専門学校まで徒歩15分、赤レンガのステキな建物である。
am11;00 アフレコ開始 、中 休憩30分を入れpm3;00 本日分のアフレコ無事終了。出席俳優人も緊張感がとけ、ホッとした表情で家路につく。
 
  2002年8月17日(土) 晴れ
am11;00〜pm5;00  大阪ビジュアルアーツ専門学校内録音室にて
アフレコ出演者 藤沢薫、木元としひろ、竹橋団、遠藤久仁子、坂本剛 、塩見順一、椋木春菜、吉井多美子
昨日にひき続き、8月までの撮影シーンアフレコが続く。高林監督、としおか、柴田、秋吉スタッフ陣の真剣なまなざしが続く。各俳優も撮り終えたシーンの感覚を取り戻そうと緊張が続く。昨日収録よりシーン数が多いため、かなりの時間を要するのでは?と考えていたが思ったより順調にアフレコが進み、中休憩30分を入れpm5;00無事本日分のアフレコ終了。
関係者一同昨日にひき続きホッとした表情で残るシーンを頭に描きながら家路につく。
残る約50%の撮影、映画「愛なくして」を支えて下さる皆様の思いを大切に全力を尽くしたいと考える。
 
  2002年8月26日 快晴
am9;00〜pm11;00  小浜 神社、ラーメン屋、海岸のロケハン
am9;00 監督宅前集合、4・5日前より猛暑が和らぎ、秋の訪れを諸々の風景の中に感じ始める頃、ロケインの為小浜に向かう。正午前に小浜到着、若狭姫神社へ行く。捜し求めた古びた能舞台に出逢うことが出来た。大変嬉しいことである。情報を提供していただいた若狭文学代表 四方吉郎先生に深く感謝する。
ロケ地決定! その後、出演者 吉井多美子宅にて全員休憩し、pm1;00 ラーメン屋ロケハンに向かう。小浜市内のそば処 米太 着、新劇俳優の宇野重吉先生が時折米太に立ち寄りお蕎麦を食べていらしたお店である。米太ののれんをくぐり店の中に入る。映像イメージの中の風景がそこに有った。ロケ地決定!
関係者一同 米太にて昼食をすませ、JR小浜線風景を確認の後 敦賀方面へ向かう。夕陽の美しく沈む海岸ロケ地探しである。車に乗ること80分、岩場風景を含め数ヶ所探索の後、思いあぐねた夕陽に出逢うことが出来た。1日中お天気に恵まれ、素晴らしいロケ地に出逢うことが出来い、近づく撮影日に思いをはせながら沈む太陽に手を合わせる。落日、すべてのスケジュールを終え帰京する。長時間の運転ご苦労様でした。
いよいよ9月8日より5泊6日、小浜撮影に入ることになる。
 
  2002年9月8日(日)  晴れ
いよいよ小浜5泊6日 宿泊ロケ出発の日である。全ロケーション中半の始まりであり、心引き締まる思いである。ロケスタッフ班は車2台にて監督と共に出発。
ロケスタッフ名;高林・としおか・秋吉・長谷川・森田・宮崎・増田。若手俳優陣は電車・JRバスにて小浜に向かう。
小浜宿泊地・小浜ロッジに午後6時集合。ロケ用荷物を各自整理後、夕飯を済ませ、pm9;00より明日のロケーション打ち合わせ、及び明日の出演 中武題・大平由佳・村田稔のリハーサルの後、pm11;00 全員 就寝 。
 
  2002年9月9日(月)  晴れ
本日は若狭フィッシャーマンズ・そとも・真珠浜撮影予定である。
出演;中武題・大平由佳・村田稔
am7;30 全員朝食
am8;20 遊覧船撮影のため若狭フィッシャーマンズに向かう。
am9;00 乗船 撮影開始
am11;00 再度乗船し撮影
pm0;30 全員ロッジにて昼食
pm1;30 小浜公園にて撮影
pm2;30 真珠浜にて撮影
pm5;00 撮影終了
pm7;30 明日の撮影予定地 そば処米太にて夕食
      明日の撮影打ち合わせ後、ロッジに戻る。
pm9;30 各自 明日の準備の取り掛かり、その後、就寝

今日は朝からお天気に恵まれ絶好の船日和となる。昨日まで海が荒れて欠航が続いていた為、心配するが定刻通り出航である。有り難い。又、福井新聞小浜支社の桑野さんに撮影取材におこしいただく。全ロケーション中半の開始・順調なロケのスタートである。しかし、午後 真珠浜付近にてアクシデント。高林陽一監督が足元を踏み外され怪我。全員蒼白である。かなりの出血の為、遠藤・宮崎同行にて小浜病院に直行。出血個所(上唇)3針 縫合。担当の口腔外科 安藤先生に大変お世話になった。両足のはれがひどく心配するが、ロケに早く戻りたいとの監督の意向により、足の方は京都に戻って診察していただくことにしpm4;00 ロッジに戻る。撮影監督のとしおか はじめスタッフは予定通りロケを続行。なんとか、この急場をしのいでほしいと祈るのみである。夕刻ロッジにて全員集合。明日の打ち合わせの為ロケ地のそば処 米太に向かう。全員高林監督のことが心配であるが、監督も米太に同行され明日の打ち合わせを行う。米太の奥様にお願いして監督用の流動食を作っていただき全員で夕食を取り、ロッジの戻り、各自 明日の準備をすませ、就寝
 
  2002年9月10日(火)  晴れ
フィッシャーマンズ・長い堤防・漁港・真珠浜・そば処米太 撮影
出演;竹橋団・中武題・大平由佳・遠藤博圭
am7;30 全員で朝食(高林・遠藤を除く)
am8;30 ロケ出発
      小浜駅にて竹橋団と合流、フィッシャーマンズ取り残し部分撮影 。その後、竹橋団出演部分のみ撮影
pm0;30 ロッジにて全員昼食
pm1;15 真珠浜付近 撮影
pm5;00 ロッジに戻り 小休憩
pm6;30 そば処 米太 撮影
pm9;00 撮影終了の後、全員(夕刻ロッジ入り藤沢薫・栗塚旭含め)で夕食・会合。
pm11;00 各自 明日の準備の取り掛かり、その後、就寝

昨日のパプニングにもめげず、全員ロケ予定スケジュールをこなしにゆく。高林監督を思う全員の心が通じたのであろうか、大変な回復の早さである。
午前中は予定のロケがとしおかのもと行われ、遠藤は高林監督に同行して小浜病院安藤先生の診察を受ける。病院売店にて監督用の食事・プリン等を購入し昼食時ロッジにて全員合流。午後より予定通り高林監督も撮影に同行。昨日の一瞬の出来事が夢のようである。マスクの下に隠された傷がさぞ痛まれることであろうと心配するが、午後よりの撮影付き添いは劇団員村田に委せ、夕刻ロケのための着付け等の準備に入る。
夕刻、明日の撮影予定の藤沢薫・栗塚旭氏がロッジ入りし、明日の準備の為身体を休めていただく。
pm6;45 そば処 米太ロケに出発、竹橋団・遠藤博圭出演シーンである。生前中、晩年の宇野重吉氏がよく通われていた店である。古風な昔ながらの味のあるお店である。又、米太の奥様の優しい笑顔が全員の疲れを癒してくれる。撮影の後、お土産まで頂戴しお心を切に有り難く感じる。皆さんの暖かいお心に支えていただき、なんとしても良い作品に仕上げねばと心引き締まる思いである。
pm9;00 ロッジに戻り、藤沢・栗塚両氏と合流の後、夕食・明日の打ち合わせをすませ、pm11;00 全員 就寝。
高林監督の身体のことが気がかりで又、連日のロケの為全スタッフの疲れはいかばかりであろうと思いながら床に就く。思いがけないパプニングの為眠れない日が続くが、何とか小浜ロケを無事終了させなければならない。明日は自分の大切な出演シーンである。監督やスタッフの皆さんのご苦労に励まされ、頑張らなければならないと自分に言い聞かす。
 
  2002年9月11日(水)
国宝明通寺 撮影
出演;藤沢薫・栗塚旭・遠藤久仁子・遠藤博圭
am7;30 全員朝食 (村田稔・竹橋団その後帰京)
am8;30 ロケ車・タクシーに分かれて妙通寺集合、ロケ準備
am10;30 撮影開始
      栗塚旭・遠藤久仁子 出演シーン
pm0;30 全員にて明通寺境内にて昼食の弁当を取る
pm1;15 撮影再開
      藤沢薫・栗塚旭 出演シーン
pm5;30 明通寺撮影終了
pm6;30 ロッジにて全員夕食
      (明日の出演者、浜崎麿吉・稗田邦隆含む、夕食後、藤沢薫・栗塚旭帰京)
pm8;00 5月撮影取り残しシーン撮影(遠藤博圭分)
pm10;00 撮影終了
pm11;00 各自 明日の準備の取り掛かり、その後、就寝
 
明通寺の境内に「ハイ!本番」と大きな声が鳴り響く、小浜ロケ中日、色々なパプニング・疲れの中、何とか小浜ロケを終えようと関係者全員の気合が伝わってくる。詩人・児童文学者 山本和夫先生を通して明通寺の御住職 中嶌哲演さんとのご縁をいただき、今日の撮影日を迎える。関係者全員、明通寺の格調高い風貌の中に在ることを心より感謝する。鎌倉・平安と時の流れを経て、静かにたたずむ明通寺、静寂さの中に気品と守りをたたえたお寺である。広い境内の中、シーンに合わせた撮影ヵ所が選ばれ予定通りの撮影が続いていく。境内の長い階段で重たい機材を上へ下へと運んで下さるスタッフの皆さん、本当に有り難う、そして快くロケを引き受けて下さった中嶌哲演さんに心から思いをこめて感謝する。
山本和夫先生の墓参をすまし、夕刻ロッジに戻り、夕食を取る。(浜崎麿吉・稗田邦隆参加)藤沢薫・栗塚旭両氏は夕食後、帰京。pm8;00より5月取り残しシーンをロッジ室内にて撮影。pm10;00撮影終了。関係者全員疲れのピークに達しているのが判るが何とか後2日!よろしくおねがいします。と心の中で祈る。高林監督の様態は日に日に快復し、昨日の事故が嘘のようであるが、監督の疲れは我々以上のものであろうと考えている。傷を隠したマスクの下で「なんとか仕事を終えなければ」と言われる監督の言葉に胸が詰まる。
 
  2002年9月12日(木)  曇りのち晴れ
若狭姫神社・吉井医院 ロケ
出演;浜崎麿吉・稗田邦隆・遠藤博圭
am7;30 全員にて朝食
am8;30 ロケ出発
am9;30 若狭姫神社ロケ準備
am9;45 若狭姫神社ロケ開始
      稗田邦隆・遠藤博圭出演シーン
pm0;30 全員にて昼食
pm1;15 ロケ再開
      浜崎麿吉・稗田邦隆出演シーン
pm4;00 姫神社 ロケ終了
pm5;00〜7;00 吉井医院ロケ準備と明日のロケと予定の打ち合わせ
         (ロッジにて)
pm7;00 吉井医院ロケ開始
pm8;00 ロケ終了
pm8;00〜10;00 吉井医院にて出演者・スタッフ殿員夕食をご馳走になる。
pm10;00 ロッジに戻り明日の準備をすませ、就寝。

薄曇の天気の為、ロケに少々不安を感じながら若狭姫神社に向かう。私は高林監督を小浜病院に診察の為付き添い、としおか はじめ他のスタッフは午前中ロケのため現地に向かう。
am11;00 姫神社に全員集合。なんとか雨が持ち堪えてくれ、午前中ロケ予定は済ませることができたが途中、小雨の為 一時ロケを中断。休憩を取りながら雨のやむのを待つこと30分、予想以上の青空が見え始め全員昼食後、午後より予定ロケ再開。さがしあぐねた古い能舞台での撮影である。朽ちはじめた能舞台に落葉が印象的である。
“風邪よ吹け!!”とスタッフの願い、能舞台に腰掛ける浜崎麿吉の姿が印象的である。又、稗田邦隆の蝦蟇の油売りの声が響き渡る。
pm4;00 姫神社ロケを終え、一旦ロッジに戻り小休憩の後、吉井医院ロケに向かう。
pm8;00無事ロケ終了。吉井医院にて、すき焼・なべ・若狭の新鮮なお造り等、大変なご馳走を戴く。本当に有り難いことである。全員、夕食を終えロッジに戻り、就寝。高林監督の怪我のほうは、大変な快復ぶりである。何よりもまして嬉しい事である。小浜ロケも後1日。ゆっくり若狭湾を眺める暇もなく、小浜ロケも終えようとしている。
 
  2002年9月13日(金)  晴れ
田舎道(明通寺付近)シーン・廃屋撮影(福井・滋賀県境)
出演 浜崎麿吉
am7;30 全員朝食
am8;00〜9;00 帰京準備
am9;00 田舎シーンロケ出発
pm0;00 ロッジにて昼食
pm1;30 俳優・スタッフ班に分かれて帰京
     スタッフ班は廃屋撮影のためロケ続行
pm4;30 セザンヌ事務所にてロケ用の荷物を降ろし作業
pm5;00 大阪へ機材返却に向かい各自帰途につく

色々なハプニングをかかえながらも5泊6日の小浜ロケが無事終了する。監督の怪我の快復も信じられないほど順調で、守られてあった5日間に深く感謝する。さすがスタッフ全員、疲れが隠せない。今夜は全員ゆっくりゆっくり休んでいただきたいと願う。ロケも約80%終了。残る20%の撮影も守られてある事を心より祈り床に就く。
 
  2002年9月26日(木)  曇りのち雨
茶室シーン撮影(大阪岸部 蓬田宅)
出演 藤沢薫・栗塚旭
am10;30 岸部駅に全員集合後ロケ地の蓬田宅に向かう。午前中の時間はロケ準備におわれ、昼食の後、pm1;00より撮影開始。障子より差し込むほのかな光づくりのため
足の踏み場も少ない茶室の中でスタッフ全員の緊張感が漂う中、蓬田女史のお手前の指導が続く。1カットが終了する度に機材の移動である。いよいよお手前本番の声がかかる。藤沢・栗塚両氏にも緊張間が漂うがpm5;00 無事茶室ロケ終了。蓬田宅で差し出して下さった茶菓子が全員の疲れを癒してくれるようなほのかな甘さである。全員お茶頂戴し、各自明日のロケのため帰途のつく。
 
  2002年9月27日(金)  晴れのち雨
常寂光寺・相馬病院・仁和寺付近路上 撮影
出演 浜崎麿吉・遠藤久仁子
am9;00 全員常寂光寺集合。ロケ準備の後、am10;00撮影開始。6月常寂光寺の浜崎出演シーンの取り直し撮影である。6月は夕刻よりあいにくのお天気のため撮影シーンの光の加減が悪く、今日の撮り直しとなる。昨日より心配していたお天気も安定しam11;00常寂光寺ロケ終了。午後よりの相馬病院ロケまで2時間あまりの時間があり、近くのファミリーレストランで昼食をとりロケ打ち合わせを済ませpm1;30 全員相馬病院に向かう。pm2;00より相馬病院酸素吸入器・心電波形の撮影に入る。相馬病院のご好意により 潟tクダ電子の大脇さんの協力により専門機具を動かしていただきpm4;00 相馬病院ロケ終了。お天気が少しあやしくなってきたのが気がかりであるが、次のロケ地に向かう。仁和寺付近歩きシーンである。長い土塀の続く道、静かな夕刻風景の中、撮影開始。pm5;00全日のロケ終了。ポツポツと雨が降り始めた。ロケ中の雨が降らなかったことを感謝し、全員帰途につく。
 
  2002年10月10日(木) 快晴
滋賀県多賀地方廃村・福井県美浜町水晶浜 撮影
出演 浜崎麿吉・中武題・大平由佳
am9;00 京都駅八条口全員集合
am9;10 ロケ地多賀に向け出発
am11;00 多賀廃村到着、ロケ準備
am11;30 ロケ開始
pm0;30 多賀ロケ終了。昼食
pm1;30 次のロケ地美浜町に向け出発
pm3;00 美浜町到着。ロケ準備
pm4;00 美浜町海岸ロケ開始
pm6;20 海岸ロケ終了、帰京
     帰京途中高速パーキングエリアにて全員夕食
pm10;00 京都駅着、全員帰途につく

午前、出演者 浜崎廃村歩きのシーンの為京都より高速にて彦根インターチェンジを降り廃村に向かう。2台のロケ車にて廃村に向かうが狭い狭いのぼり道のため車輪が少々ずれれば谷に転落である。ガードレールもない。さすがにこわい。これですべて終わってしまうのかな?とも一瞬考える。しかし撮影班はそんなことはお構いなしである。いい風景を撮りたいとの撮影班の思いに心打たれる。am11;00廃村着。美しい自然の風景の中に在る廃村。やはり来てよかった!と全員目が光る。沢山の秋のすすきの穂が光を受け美しい。ロケ準備を始めロケを開始する。pm0;30廃村の風景の中で全員昼食をとる。午前中のこわさが嘘のようである。陽射しが眩しく澄んだ空気が美味しい中、次のロケ地美浜に向かう。
pm1;30 彦根駅で待つ出演者 中武・を大平のせ、美浜町の水晶浜に向かう。シナリオ最終シーン、夕陽の中のロケである。車中、秋の訪れをつげるコスモスの花が風にゆれ美しい。pm3;00 水晶浜到着。8月ロケハンより太陽の沈む位置にずれがあり少々困るが、きれいに澄んだ美しい海が印象的であり、穏やかな海に吹く潮風がとても心地よい。pm4;00 ロケ開始。ベテラン俳優出演の中、唯一の若手2人である。さまざまなプレッシャーの中今日の日を迎える2人の姿を、夕陽の美しさ、撮影班の姿を見て知らず知らず涙があふれてくる。pm6;00 無事ロケ終了。美しい夕陽の中の2人の映画最終シーン撮影終了に心で万歳と叫ぶ。高速で走り帰京する。途中サービスエリアにて全員夕食、食後のコーヒーを飲み疲れを癒し帰京する。車に乗ること往復360k。皆さんお疲れ様でした。そして、長時間の車の運転有り難う御座いました。
 
  2002年10月31日(木)  晴れ
滋賀 愛知川付近 琵琶湖 ・ 上七軒 ふた葉 撮影
出演 藤沢薫・遠藤久仁子
am9;30 京都駅八条口全員集合
am10;45 JR近江八幡駅到着
      龍谷大学カメラマン林さんを落ち合う
am10;45〜11;30 最寄のマクドナルドにて打ち合せ
am11;30 ロケ地に向け出発
pm0;10 ロケ地到着
     全員昼食
pm0;40 ロケ準備に入る
pm1;20 ロケ開始
pm4;00 琵琶湖ロケ終了
pm4;30 次のロケ地京都上七軒に向かう
pm7;45 渋滞の為大幅に遅れ上七軒に到着
pm7;45 上七軒 ふた葉店先提灯撮影準備、撮影開始
pm8;30 全日ロケ終了
pm8;30 全員にて夕食
pm10;30 全員現地解散

クランクアップの朝、昨夜より、この日を迎えるまでの日々が走馬灯のようによみがえりほとんど眠れず、祈るような気持ちでロケ地に向かう。藤沢氏とのからみのシーンである。スタッフの目が一点集中する。いつもの事であるが真剣なまなざしがとても美しい。出演者も同様自分の役に一点集中する。一つのものに向かって全員の心が集中するさまは何にもかえがたい喜びである。今日で撮影が終了すると思うと、まだまだ上映までやらなければならない事は沢山あるがやはり一抹の淋しさを覚える。雨量が少なく琵琶湖の風景を心配していたがとても情緒ある場所に出逢え、感謝する。冷え込みの厳しい琵琶湖の1日であるが、心と身体は熱く、いい仕事がしたいとのみ願っている。夕刻、琵琶湖ロケ終了。
京都上七軒ふた葉さんの協力をえて店先の赤提灯の撮影をお願いする。pm8;30 全日ロケ終了。ペコペコのお腹をかかえ全員、千都にて夕食。今日は少し高い食事をしていただきたいと考えるが、製作費の事を考えて控えめに注文をされるスタッフの皆さんの心根がとても有り難く、嬉しい。注文したおうどんがとても美味しかった。いよいよクランクアップ。映画の話が決まり3年2ヶ月の歳月。皆さんに支えていただき、ここまでたどり着けたことを心より感謝する。撮影スタッフの皆さん、出演者の皆さん、ご協力いただきました一 般の皆様、本当に有り難う御座いました。編集・音入れ等完成まであと2ヶ月強、心を引き締めて頑張ります。
 
  2002年12月14日(土) 晴れ
pm1:00〜pm5;30 大阪ビジュアルアーツ専門学校内録音室にて
アフレコ出演者; 浜崎麿吉・稗田邦隆・中武題・大平由佳・村田稔  スタッフ;高林陽一・としおかたかお・秋吉弘文・遠藤久仁子
 
  2002年12月15日(日) 晴れ
am10:30〜pm4:00 大阪ビジュアルアーツ専門学校内録音室にて
アフレコ出演者; 栗塚旭・藤沢薫・竹橋団・遠藤久仁子
スタッフ;としおかたかお・柴田誠・秋吉弘文・長谷川智章・遠藤博圭
スタッフ陣は終了後、録音室にて作業続行、俳優陣は解散。遠藤・秋吉は音楽打ち合わせの為、音楽担当;芦沢氏と梅田にて打ち合わせ。土・日の両日に渡り最終アフレコを行う。俳優陣にとっては最後の仕上げである。緊張感が高まるが、両日ともスムーズに作業を終え俳優陣はホッとひと息である。永い間、お疲れ様でした。又、これより最終作業に入るスタッフ陣が大変である。編集・音入れ・効果等、まだまだ綿密な最終作業が残っている。新年を間近く迎える中、スタッフ陣の健康を祈る。
 
  2002年12月15日〜
としおか引きいる編集作業に入る。
 
  2002年12月20日(金) 雨
宝塚雲雀ヶ丘 芦沢氏宅 スタジオにて音楽打ち合わせ
出席;芦澤魁作・高林陽一・秋吉弘文・遠藤久仁子  
多忙な芦澤氏であるが今回の「愛なくして」の仕事を大変喜んで引き受けて下さり、有り難い。どのような映画音楽に仕上がってゆくのか、監督はじめ関係者一同楽しみにして芦澤氏宅を出る。 
  2002年12月28日(土) 晴れ
pm5:00〜0:00 ししくフリースペース(セザンヌ公演会場)にて忘年会
スタッフ;高林・としおか・長谷川・秋吉・柴田・増田・小倉・大森
俳優;藤沢・浜崎・木元・遠藤・竹橋・村田・塩見・稗田・大平・坂本・遠藤(博)出席

色々な事情の為、出席できなかった俳優陣・スタッフ陣の居ることが残念であるが、待ちに待った忘年会である。一年間関係者の皆様、本当にお疲れ様でした。今夜は久しぶりのごちそうである。すき焼・鍋・焼肉(スタッフの方への感謝の気持ちを添え、セザンヌ団員・若手出演俳優にて忘年会準備、又すき焼肉のお肉は出演者の吉井多美子さんより差し入れ)、各自自分の好きな食べ物の前に座り、それぞれが自身の一年を振りかえり、スタッフ陣は残る最終作業に思いをはせ、俳優陣は仕事が終わってしまった一抹の淋しさと上映の日に思いをはせ、あっという間に7時間が過ぎて行った。次に一同が集まるのは0号試写の日である。間もなく新年を迎える。新しい年が一同にとって良い年となるよう心より祈る。忘年会の後、遠藤・遠藤(博)・塩見・浜崎・大森・竹橋が残り後片付けに入る。時間は翌朝の4時を回っている。ししくの窓より差し込むお星様が美しく輝いている。本当に大変な一年であったがなんとかこの日を迎えることができた事をご協力いただいた総ての皆様に深く感謝する。
 
  2003年1月1日
新年あけましておめてとうございます。
沢山の皆様のご協力により、映画「愛なくして」も間もなく完成を迎えようと致しております。新劇の舞台一筋に歩んで参りました私にとって映画製作におきましては無知の私をここまで支えて下さいました高林監督はじめ映像スタッフの皆様、影ながら暖かい励ましのお力添えをいただきました観客の皆様への感謝の念を深めながら皆様の今年一年のご多幸を心よりお祈り申し上げ、映画「愛なくして」が皆様に喜んでいただけます作品となりますよう完成までの日々を大切に歩んで参ります。
 
  2003年1月7日(晴れ)
音楽担当芦澤氏 サンテレビ「ふれ愛・語り愛」にて映画「愛なくして」を紹介(芦澤氏 昨年12月より音楽制作作業開始)
 
  2003年3日(金) 〜
・としおか引きいる編集作業開始
・ビィジュアルアーツ専門学校 映画制作。 担当:柴田誠、録音・整音作業開始
・としおか・秋吉・応援スタッフによる効果音作業開始  
 
  2003年1月31日(金) 晴れ
夕刻より高林監督宅にて、監督・としおか・秋吉・遠藤、参加のもと芦澤氏より郵送された映画音楽の検討に入る。 
 
  2003年2月3日(月) 晴れ
夕刻6時(於、阪急ホテル喫茶室にて)1月31日郵送分の芦澤氏の映画音楽について会合。芦澤・高林監督・としおか・秋吉・遠藤、参加
映画「愛なくして」の映画音楽について監督はじめ各スタッフの意見交換を行う
 
  2003年2月18日(火) 曇り
夕刻より高林監督宅にて芦澤氏より再郵送された音楽のビデオ含め確認作業に入る。(監督・秋吉・遠藤 参加)
例年になく寒い日が続くが完成までのわずかの日々、期待と不安の中、映画音楽確認作業が続く。
 
  2003年2月21日(金) 晴れ
夕刻より監督宅にて音楽最終打ち合わせ。(高林監督・としおか・秋吉・遠藤 参加)
芦澤氏より再郵送された数多くの音楽の中より選曲された曲について最終確認を行うこと3時間。1曲1曲に耳をすまし神経を集中し、シーンごとの曲の選択に間違いがないか、はりつめた時間が過ぎていく。その時間帯の中ある監督・としおか・秋吉の姿は私にとってとても美しい姿に写る。何か真剣に取り組む姿にの中に多くを学ぶ。午後10時確認作業終了。
 
  2003年3月10日(金) 晴れ
於;ヴィジュアルアーツ専門学校 (高林監督・としおか・柴田・芦澤・秋吉・遠藤参加)
午前10時より音入れ作業開始。昨日より何だか落ち着きがない自分を発見する。当初の完成予定より予定が1ヶ月遅れるが、いよいよ完成間近である。音入れ1秒1秒の間に全員の神経が集中する。‘間は魔である’と日頃舞台に於いて考えている世界がここにも存在する。シーンごとに音入れ作業が続いてゆく。監督のうなずきと共にとしおか・柴田の作業が継続されえてゆく。感慨深く撮影現場での日々を思い起こしながら、もう1歩もう1歩と心の中で叫ぶ。いよいよ最終シーンである。全員納得のもと作業を終了し午後5時30分、ヴィジュアルアーツ専門学校を出る。としおか・柴田は録音室に残り最終確認作業を終了する。
 
  2003年3月20日(木) 晴れ
企画より3年半の歳月を終えイマジカウエストにて本日やっと待ちに待った初号試写日を迎える。この日、同時にイラク戦争が始まり、心の底から喜べない事が残念であるが、この3年半の歳月を沢山の皆さんの励ましのお心に支えられここまでたどりつけた事を率直に喜びたいと考える。高林監督・スタッフ・出演者はじめ配給関係者・人見嘉久彦氏・上倉庸敬氏・井上理砂子氏・原将人氏 等総勢30名近くで各自がそれぞれの想いをもってスクリーンを見つめる。支えて下さった皆様方に恥じることのない、いい映画に仕上がったことを心より感謝するとともに支えて下さった皆様方に、私個人の想いに中にこの3年半の歳月、皆様に恥じない作品ができなければ死ななければならないのではなかろうか、もともと貧乏生活、費用のかかる映画創りを考えるなど尋常沙汰ではない。しかしなんとか関西で頑張り続ける人々と共にいい映画を作りたい等々、思い悩む3年半の歳月、皆様に恥じることのない作品のできたことは(高林監督・スタッフ・出演者の皆さんの多大な協力のもと)私にとって・関係者のとってかけがえのない喜びである。今後、良し悪しの観客の皆様の評価が下される事と考えるが、支えて下さった皆様方にはここまで関係者一同にて力を合わせ完成したことで許していただきたいと考えている。
 
  2003年3月26日(水) 晴れ 東京イマジカ
映倫試写・初号試写のため朝一番に京都を発つ。
am10:00 映倫試写開始。映倫審査を受ける。
am11:30 映倫試写終了
pm5:10 東京初号試写開始

配給関係者及び佐藤忠男氏・大林宣彦氏・奥様・大森一樹氏等、映画専門家の皆様に観ていただく、(高林監督・としおか・遠藤同行)。
東京初号試写日、お天気に恵まれ東京へと向かう。東京の皆様は今回の映画『愛なくして』をどのように御覧になるのだろうか、不安と期待の中夕刻よりの試写が始まる。緊張のせいであろうか、上映中咳が出て困る。pm6:40初号試写終了。その後、佐藤氏・大林氏・矢野氏・景山氏等を含めイマジカロビーにて会談。好評のようである。また、先日 人見嘉久彦氏よりも個性的な良い映画であるとの言葉をいただく。これでやっと支えて下さった皆様との約束が守れる、頑張り続けて良かった!昨日より一睡もできず、帰りの新幹線の車中ぐっすり眠りたいと思ったが緊張のせいであろう、一睡もすることなく京都に着く。高林監督・としおかの顔にも安堵の感と共に今日一日の疲れが伺える。ここまでの映画に仕上げてくださった両氏及びスタッフの方々に心より感謝する。さぁ今夜はゆっくり休みたい。
 
  2003年4月
高林監督、復刻版「あの遠い映画への旅」原稿執筆作業に入る。
としおか、映画宣伝用ビデオ作成に取りかかる。
遠藤、映画上映の為の諸準備にとりかかる。 
 
  2003年5月
秋吉・としおか、「愛なくして」予告編作業準備に入る。
高林監督、原稿執筆作業中。
遠藤、宣伝美術担当の小倉と共にチラシ・ポスター等の作成準備に取りかかる。
 
  2003年6月
映画評論家の佐藤忠男氏・人見嘉久彦氏よりパンフの原稿届く。
 
  2003年7月4日
東京試写 高林監督・遠藤同行
東京・京橋、映画美学校にてpm3:30より試写開始。
2回目の東京試写である。次回は10月予定。監督と共にam11:56発ひかりに乗車し東京に向かう。3月末試写同様お天気に恵まれ美しい富士山の姿を眺めることができた。午後3時過ぎ映画美学校着。映画評論家の品田氏、秋浜氏等に鑑賞いただく。試写後、配給会社シネマトリックス 矢野氏、品田雄吉氏と共に会談。帰りの新幹線時刻までの約2時間近くの貴重な時間を品田氏にさいていただいた事を深く感謝する。pm10:45京都着。高林監督の体調が心配であるが、お元気な様子なので安心して帰宅する。上映まで、まだまだ色々な諸準備におわれるが、良き上映の日を迎えられることを祈り帰宅する。
 
  2003年9月21日(日)  小雨のち晴れ
pm2:30〜pm6:30 「愛なくして」特別披露試写
          JR京都駅八条口 アバンティーホール

いよいよ期待と不安の入り混った特別披露試写の当日を迎える。自分なりに最善の準備を整えたつもりであるが、やはりどれだけの観客の皆さんに鑑賞していただけるのか、できれば募金を頂戴した皆様方には感謝の気持ちを込め、是非鑑賞いただきたい等々、いつもの舞台の開幕寸前の緊張感にてお客さんを迎える準備を整える。昼上映立見席を含め約400名、夜上映350名の皆様に鑑賞いただくことができた。これは私にとって又関係者一同にとって大きな喜びである。雨天混じりの雲天の中、沢山の皆さんに足を運んでいただき、それ以上の喜びはない。
夕刻より雲天は晴れ模様に変わり一瞬七色の虹が顔を見せる。いよいよ「愛なくして」本格的上映の一歩の始まりである。願わくば、この虹が象徴となり多くの観客の皆さんとの掛橋になってくれることを切に願う。
 
*2003年9月21日(日) 於:京都アバンティーホール

高林陽一監督 「愛なくして」 特別披露上映

場所 京都駅八条口 アバンティーホール
pm2:30〜 (1回目)
pm6:30〜 (2回目)

9月21日(日曜日) JR京都駅八条口アバンティーホールにて特別披露試写会に
沢山の皆様のご来場有り難うございました。 


 
  2003年10月6日(月)  晴れ
会場;東映試写室
   プレス・マスコミ試写
  出席:遠藤・秋吉・芦澤(監督:高林 病気の為欠席)

9月21日アバンティーホールにて特別披露試写を無事終了し、いよいよマスコミ・プレス試写日を迎える。昨日、高林監督緊急入院のもと、遠藤・秋吉・芦澤が監督代理のあいさつを務める。監督の様態がかなり気にかかるが、とにかくプレス・マスコミ試写を無事終了しなければならない。25名近くのプレス・マスコミ関係者の方々に鑑賞いただき有り難いことである。映画終了後、忙しい中 としおかも皆さんへのあいさつに顔を出してくれ、とても力強く思われた。
終了後、監督入院の京都桂病院に直行する。風邪の菌が原因の様子で2週間あまり退院できるのではとの話を伺い大事に至らずに済んだことを感謝する。
 
  2003年10月22日(水)
NHK京都放送610にて高林陽一監督出演 映画『愛なくして』紹介
 
  2003年11月1日(土)
OBCラジオ大阪にてpm3:00〜pm5:00 「百万人青春ソング」にて音楽担当の芦澤魁作氏、『愛なくして』紹介
 
  2003年11月1日(土)  晴れ
pm6:00 チルコロ交流会にて「愛なくして」製作過程話等
  出席:遠藤・浜崎・としおか・秋吉
チルコロ店主岡本氏の好意によりチルコロ交流会にて難波司会のもと映画「愛なくして」の製作過程話をさせていただく。約40名近くの出席者の皆さんに話を聞いていただき、映画「愛なくして」への協力を求める。皆さんの励ましの行為に感謝する夕べである。
 
  2003年11月2日(日)  晴れ
第45回小浜市総合文化祭
pm6:00〜「若狭の春」・「愛なくして」同時上映
主催;小浜市文化協会  共催;小浜市・小浜市教育委員会

若狭文学会、山本和夫の会、他小浜の皆さんの協力のもと小浜文化会館にて「愛なくして」上映の機会を与えていただく。上映募金、ロケ協力、上映協力と度重なる小浜の皆さんや諸先生方への励ましのお心を感謝する日々である。正午、小型観光バスにて映画関係者の高林・遠藤・秋吉・浜崎・藤沢・栗塚・遠藤(博)・村田、セザンヌ観客の難波夫婦・福島夫婦・小橋ファミリー、第2日曜日映画観る会?(坂谷・大森)、の計18名にて小浜に向かう。久しぶりの小浜である。少し時間が取れれば皆でゆっくり寛ぎたく願いのもとバスに乗り込むが予想以上に時間がかかり当初予定した国宝 明通寺(ロケあいさつを兼ねて観光)に着いたのがpm3:30、住職の中嶌哲演氏にあいさつを済ませ、小浜の皆さんとの交流の原点になった山本和夫先生の墓参りをして、次にロケ地のそば処 米太さんにて遅い遅い昼食を全員にて取ることになる。ロケの時より米太さんには大変お世話になり感謝していたが、この日も御礼に伺ったつもりであったが反対に沢山の若狭のお魚やお惣菜にての暖かいもてなしを受け心より感謝する。私に他の土地より訪れられた方にはできる限りのもてなしをすることを教えてくださった。10年近く若狭小浜の皆さんとのお付き合いであるが、私にとっては故郷のような場所である。
その後、小浜文局取材の為、文化会館に直行する。上演30分前のことである。pm6:00「若狭の春」上映開始。監督の体調が思わしくなく失礼であるが中退座し始めと終りを観させていただく。pm8:00、監督・出演者挨拶の後、映画「愛なくして」上映開始。pm9:45 終了。小浜にてゆっくり過ごす時間もなく出席者全員にて、関係者(四方・小浜・松井・吉井 氏)等に挨拶を済ませ帰京のバスに乗り込む。帰りのバスの中、小浜の諸先生方にご用意いただいたお弁当・お蜜柑・シュークリーム・お茶等を全員にて分けて有り難くいただく。帰りの車中は全員遠足気分である。映画についての対論が始まり、時には歌を歌ったりする者、全員最終電車に間に合うのか心配であったが、楽しいバスの1日旅行であった。
 
*2003年11月2日(日) 於:小浜文化会館
高林陽一監督 「愛なくして」 上映会
小浜文化祭にて
pm6:00〜 pm9:00 関係者の挨拶有り
 
  2003年11月15日〜12月5日(金)・11月29日〜12月5日(モーニングショー)
   高林陽一の世界『愛なくして』ロードショー 大阪シネ・ヌーヴォにて
いよいよシネマトリックス、シネ・ヌーヴォ配給による映画館にての高林陽一の世界『愛なくして』ロードショー上映の始まりである。
映画館にての上映の不可能な作品が多いを聞く中、こうしてこの日を迎えることが出来た事は不思議なことである、というよりやはり目に見えない所での沢山の方々の協力によりこの日を迎えられたという事を自分自身の心に深く刻みつけなければならないと考えている。今回の観客動員が次の上映につながる現実の中、シネマトリックス、シネ・ヌーヴォ関係者の皆さんに深く感謝しなければと考えている。出来る限り動員のお手伝いをしたく考えるが個人の劇団では限界がある。又、同時上映高林監督他作品を鑑賞させていただく良い機会である。監督の作品にかけてこられた魂を深く読み取ることが出来る。今日よりはじまる3週間上映期間できる限り多くの方々に高林陽一の世界『愛なくして』ロードショーに足を運んでいただきたい。
 
*2003年11月15日(土)〜12月5日(金) 詳細はこちら 於:シネ・ヌーヴォ
高林陽一の世界 「愛なくして」 ロードショー
大阪 シネ・ヌーヴォにて
(06)6582-1416
 
  2003年11月25日(火)
am10:00〜am11:00NHKラジオ第1放送(全国放送)「関西発 きょうも元気で!わくわくラジオ」にて高林陽一監督、「愛なくして」のトーク
 
  2003年12月31日(水)
大阪シネ・ヌーヴォにての上映も終了し、映画『愛なくして』関係の今年のスケジュールを全てこなしたことになる。
今年は昨年に増して(撮影年)大変な年であった。光陰矢の如しという言葉通りの日々である。映画宣伝活動のため、あっという間もなく日々が過ぎてゆく。映画関係者の方にとっては、これらのことは日常茶飯事のことなのであろうが、一言の台詞を喋ることに何ヶ月も費す舞台俳優にとってかなり辛い日々でもあった。舞台創りも大変であるが、映画製作の大変さを身にしみて痛感すると共に映画製作に携わる人々に心から尊敬の念を抱く。映画が完成しても劇場で公開されることのない映画が沢山あると聞く。そんな中『愛なくして』は皆さんに守っていただき何とか上映にこぎつけている。感謝と共に『愛なくして』関係者一同にとって来る年が佳い年となりますよう除夜の鐘を聞きながら、この一年の煩悩に思いをはせ祈りつつ、2003年を終了する。
 
  2004年1月1日(木)
新年 明けましておめでとうございます。

普通のことであるが一夜明けると新年である。今日より新しい年の歩みが始まる。期待と不安をかかえながらの一年の始まりである。今年もカンヌ出品準備、東京上映とまだまだ落ち着けない日々の始まりとなる。
 
  2004年1月〜2月末
いよいよカンヌ出品準備の始まりである。既に昨年、大阪大学美学研究室の上倉先生のご協力によりフランス語訳は終了済みである。又、英語訳の方もアメリカ オハイオ在住の従兄弟、田代氏により翻訳済みとなっているが、ビデオ打ち込み作業のため、再度翻訳の検討に入ってもらう。ビデオ打ち込み作業に関しては撮影監督のとしおか氏にお願いすることになる。としおか氏には映画『愛なくして』に関して忙しい中度重なる協力を得、本当に申し訳ない思いである。私の方は娘と共にカンヌよりの申し込み用紙記入に入るが、すべて始めての経験であり、特にフランス語となるとチンプンカンプンである。まずフランス語を英語に直し、少しの間違いもあると申込書が受理されない為、かなり神経質になる。又、同時に英語の方も不得意であり不安な日々が続く中「もうお手上げ!」という声が脳裏をかすめるが、一方今までご協力し助けていただいた方々にここで挫けては申し訳ないではないかという想いがよみがえり倒れそうな自分に鞭を打つ。外国出品に関しての知識のある方には何でもない簡単なことなのであろうが、ほとほと疲れきっている。若い頃にもう少し外国語を勉強すべきであったと反省する。とにかく、高林監督にいただいた要約等、必要事項に書き込みの作業に入る。微妙なニュアンスに関してはアメリカ在住の田代氏にお願いして、なんとか英語で記入した申し込み用紙の作成作業を終える事ができた。もしフランス語で記入しなければならない申し込み用紙であれば、私達の力ではどうすることもできなかったかもしれない。不安な日々を過ごし、記入済みの申込書をカンヌの方へ送付する。
2月末カンヌよりカンヌ映画祭受付受理番号「B0419」という連絡をいただき正式に申込書は受理されたことになった。やっと暗闇の中より光が見えてきたという感じである。娘と共にささやかにビールで乾杯する。
これより英語版ビデオ、カンヌ送付作業に入る。
 
  2004年2月8日(日)・9日(月)
8日、第3回鉄道映像フェステバル 高林陽一監督「すばらしい蒸気機関車」上映、及び映画「愛なくして」宣伝の為上京。
約1000名近くの方が集まる。高林監督が挨拶をされ、佐藤忠男氏の鉄道を巡るお話しが興味深かった。
9日、映画宣伝の為、シネマトリックスの事務所にて毎日新聞社紀平氏の取材を受ける。映画『愛なくして』をできる限り沢山の方々に観ていただきたいですね。といわれる言葉に勇気づけられ、励まされpm10:30帰京する。
 
  2004年3月
としおか氏の協力により英語版ビデオ『Whithout love』が完成する。やっと送付の準備が整った。英語版ビデオ『Whithout love』、
及びフランス語訳『Sans amour』を封筒に入れ、何度も住所確認を行い、京都中央郵便局にて国際エクスプレスメールにて送付。
緊張の為、何度もエクスプレスメールシールを書き損じ、手が震えている自分に気づく。何だかビデオでなく自分が未知の世界へ旅立つような瞬間である。どうぞ・どうぞカンヌにしっかり届けられますようにと祈り、郵便局員の方に差し出す。待つこと4月、カンヌよりビデオ受理のメールをいただく。万歳、万歳!!である。結果はどうであれ、協力いただいた皆様への約束をやっと果たすことができたのである。公式部門正式出品作品として選定された場合、4月末までにカンヌの方より連絡をいただけるそうである。4月末まで残る40日近く、コンペ部門正式招待作品に選定されることを祈りつつ、とにかく安堵の気持ちでいっぱいである。東京上映宣伝に向け明日より又動き始めなければならない。
 
  2004年3月末
日刊現代記者加藤氏、遠い所京都まで東京上映(あの人は今)取材の為、高林監督宅にお越しいただく。
 
  2004年4月8日(木)
昨年(東京試写2回)に引き続き、魂のシネアスト−高林陽一の宇宙−と題して、東京映画美学校第2試写室にてpm1:00より『愛なくして』(82分)、『石っころ』(60年35分)のプレス・マスコミ試写。
 
  2004年4月16日(金)
於:映画美学校第2試写室
プレス・マスコミ試写 pm6:30より『すばらしい蒸気機関車』(80分)・『南無』(59年22分)
 
  2004年4月25日(日)
カンヌよりメールが届いた。公式出品作品に選定された場合にのみカンヌより連絡が入ることになっていたのでカンヌよりメールが届いた時は本当に驚いた。狐に馬鹿にされたような一瞬であった。やはりフランス語と英語の文章であり、チンプン・カンプン、皆目内容が読み取れない。早速日本語訳に訳す事3時間、その内容は高林監督に宛てられた大変丁寧な文章であった。
「親愛なる高林、私共は貴方の映画がカンヌ公式部門に選定されなかったことを大変残念想う…以下略」
という主旨のメールであった。カンヌより高林監督への敬意を表したメールであった。
『愛なくして』公式部門に選定されなかったが、わざわざ大変丁寧なメールをいただけたことは本当に嬉しいことである。協力していただいた皆様方に今日までの応援を心より感謝すると共に大変申し訳ない思いであるがここまでめげずに頑張ってきたので許していただけるだろうと自分を慰める。
カンヌ出品作品公式部門として世界で18作品が選定された。
 
  2004年5月10日(月)
於:映画美学校第2試写室
プレス・マスコミ試写 pm3:30より『愛なくして』『石が呼ぶ』(61年15分)
雨になると心配していたが曇り空の中高林監督と共に東京に向う。
pm2:00より朝日新聞学芸部記者石飛氏より6月から始まる特集上映についての取材を受ける。
pm3:30 高林監督挨拶
pm4:00 加藤氏取材
pm6:00 キネマ旬報社 植草氏・川井氏取材
本日、3回に及ぶプレスマスコミ試写無事終了。沢山の皆様に関心を持って試写会にお越しいただけたことは本当に有り難い事である。東京にて宣伝活動に従事して下さっている方々に感謝の想いでいっぱいである。
6月12日より始まるポレポレ東中野にての特集上映、少しでも多くの方々に鑑賞していただければ、こんなに嬉しいことはない。これより特集上映のチラシが刷り上ってくる。私も微力ながら東京方面の方々に少しでもポレポレ東中野に足を運んでいただけるよう頑張りたいと考えながら帰京する。
 
  2004年5月8日 日刊ゲンダイ「あの人は今こうしている>ベテラン映画監督高林陽一さんにてポレポレ東中野にて上映予定の特集上映及び『愛なくして』について

 
  2004年6月11日(金) 毎日新聞朝刊 ひと欄にてよみがえった作る喜びにこだわった人の生と死に於いて特集上映及び『愛なくして』について
 
  2004年6月12日(土)
いよいよポレポレ東中野にて特集上映『魂のシネアスト−高林陽一の宇宙』にて「愛なくして」他17作品一挙上映の日の始まりである。沢山の方々に守っていただき4年の歳月を終えやっと東京上映にこぎつけることができた。東京での上映の日々7月2日まで幸多かれと心より祈る。少しでも多くの方々に鑑賞していただきたいと切に祈る。東京上映開始日に心を残し私は円山野外公演の為上京出来ないことが心残りであるが、想いを高林監督・としおか(撮影監督)・秋吉(助監督)に託し円山野外公演にのぞむ。
 
  2004年6月14日・28日号
6/14 P75:自主映画の草分け的存在 高林陽一の作品を一挙公開にて詳解
6/28 独自の道を歩み続ける天才映像作家を大特集 愛なくして他詳解   
 
  2004年 この映画がすごい 7月号にて P085 特集上映「魂のシネアスト−高林陽一の宇宙−16年ぶりの最新作もあわせて一挙上映について詳解
 
  2004年 月刊誌 ダ・ヴィンチ 7月号 P169 要チェック!話題の最新作「魂のシネアスト−高林陽一の宇宙」にて詳解
 
  2004年 キネマ旬報 7月上旬号 P117〜119 スペシャルインタビュー 高林陽一
     高林陽一監督の「遺書」としての『愛なくして』にて特集上映及び『愛なくして』について詳解
 
  2004年6月19日(土)
  東京行き
AM8:34発のぞみ にて高林監督と共に東京に向かう。12日より始まっている上映の日々が気にかかりながら・・・
AM11:45 ポレポレ東中野着。ポレポレ東中野の大槻さん・堀田さんに挨拶をすませて後、配給責任者の矢野さんはじめシネマトリックスの皆さんと共に昼食を取る。東京にて上映のために力を注いで下さる方々である。シネマトリックス、ポレポレ東中野の皆さん、そして高林監督はじめ私共一同のためにも少しでも多くの観客の方々に観ていただきたい。
PM0:40 『愛なくして』上映開始。高林監督及び遠藤、舞台挨拶
PM2:30 高林監督挨拶
予想していたより観客の皆さんの入りが悪く、シネマトリックス、東中野の皆さんに大変申し訳ない気持ちで残る14日間の上映の日々、自身の微力を悲しく思うが自分なりにできることをやらなければならないと自身に言い聞かせ帰京する。そして、この日会場に訪れて下さった方々に何よりも感謝し、ステキな上映館ポレポレ東中野にて『愛なくして』上映を引き受けていただけたことを何よりも嬉しく考える。
 
  2004年6月14日 朝日新聞 高林監督、16年ぶり新作『愛なくして』 特集上映及び『愛なくして』について詳解
 
  2004年6月28日(月)
夜行バスにて遠藤他出演者、浜崎、村田、遠藤(博)、4名にて東京に向う。
 
  2004年6月29日(火)
早朝、新宿駅着
近くの広場にて持参したお弁当を食べ市営地下鉄にてポレポレ東中野に向う。
本日の上映作品(5作品)を観て今夜の夜行バスにて京都へ帰る予定である。各回の観客数が気になりながらポレポレ東中野のゆったりとした観客席の中で「すばらしい蒸気機関車」「餓鬼草紙」「蔵の中」「愛なくして」「往生安楽国」を観る。夜行バスの都合にて「往生安楽国」は心残りであるが中途退場する。
昨夜よりの強行スケジュールのため全員疲れが溜まっているが、1観客としてセザンヌの仲間と共にポレポレ東中野にて過ごした1日は私達にとって貴重な一時であった。7月2日ポレポレ東中野にての上映が終了する。少しでも沢山の方々に自分達の映画を観ていただきたいと願うばかりである。
 
  2004年7月2日(金)
午後9時30分東京 ポレポレ東中野にて特集上映 魂のシネアスト「高林陽一の宇宙」全上映が終了した。2003年秋より京都・小浜・大阪・東京にての「愛なくして」上映が終了した。
今後、どこでどのような人々に「愛なくして」を観賞していただけるか未知数であるが高林監督他、スタッフ、出演等、募金をいただいた方々の協力により出来上がった作品である。出来る限り多くの方々に観賞していただけるよう頑張りたいと考える。
又、上映に協力していただける方々に出逢えることを心より祈っている。
 
  2005年10月末
高林監督、第28回山路ふみ子映画功労賞をうけられるとの連絡をいただく。(山路ふみ子映画功労賞:映画界各分野で長年に亘って立派な仕事を続けている人を対象に受けられる)
 
  2005年11月26日(金)
山路ふみ子映画賞贈呈式(午後6時・東京新橋ヤクルトホールにて)
理事長挨拶後、贈呈式。
山路ふみ子映画受賞者:黒木和雄氏
山路ふみ子映画功労賞:高林陽一氏
山路ふみ子映画文化賞受賞者:平野皓司氏
山路ふみ子映画文化財団特別賞受賞者:渡辺謙氏
山路ふみ子映画福祉賞受賞者:是枝裕和氏
山路ふみ子映画女優賞受賞者:宮沢りえ氏
山路ふみ子映画新人女優賞者:一青窈氏

受賞式後 受賞記念上映作品「父と暮らせば」(黒木和雄監督)

26日昼、高林監督受賞式出席の為、私も同行させていただき受賞式に出席する。ヤクルトホールにて700名近くの観客のもと受賞式が行われる。高林監督が映画功労賞に決まったことは我々映画「愛なくして」関係者一同にとって、とても喜ばしいことであり、73才までのご苦労に心より敬意を表したい思いでいっぱいの大拍手を贈った佳き1日であった。
up

 
ご協力下さいました方々

撮影協力

 大西タイヤ販売株式会社、小浜市観光協会、小浜市市民町づくり部商工観光課、

 上七軒 ふた葉、北橋亮太郎・幸江、京都新聞社、鞍手クリニック、国宝 明通寺、

 JR西日本京都支社、常寂光寺、相馬病院、創作呉服よもぎだ、そば処 米太、

 そともめぐり遊覧船 若狭フィッシャーマンズワーフ、テーラーロダン、

 東京衣裳株式会社、原 将人、フクダ電子京滋販売株式会社、味田医院、

 美浜町観光協会、山崎かつら、吉井医院、若狭姫神社
 
協力

 団体名・個人名(五十音順)

 赤レンガの会、一期一会の会、雲林社、映画で語ろう会、遠藤書店、

 大阪模型センター、小野登とその仲間達、京都労演、祇園・倫敦亭 、

 劇団 京芸、国語研究サークル土曜日の会、参究塾、白石会、人文書院、

 大日本スクリーン労働組合、第2日曜は映画観る会?/OBs関西有志、西村ゼミ、

 neutron、山本和夫の会、洛西書院、龍谷大学、若狭文学会、


 浅野瑞枝、赤崎壽博、飯村保、石井智幸・明美、石川幸子、石黒丈喜、伊藤健佐久、

伊藤元英、伊藤令子、井上奈緒美、稲田隆雄、今西昭二郎、岩崎和子、岩田福次郎、

 上原徳治、遠藤和良、遠藤隆博・博圭、遠藤宗男、大石征勝、大西和彦・甫美・麻季江、

 大西久信、大場康司、大森恵子、岡田尚丈、大倉由喜子、小野登、大澤輝一、

 沖増修治、押鐘絹一郎、小畑昭八郎、大益牧雄、奥敏郎、片浦正和・雅子、

 金森昴作、川井実・朝子、河島有美、河副英治、甲斐佳晶、蒲原敏光、加福秀行、

 加老戸忠良・ヒデ子、北村博文、木元富夫、久世谷登志子、国本幸江・彰紀、

 櫛田美香子、久保晴彦、熊井ツヤ、熊井元信、熊井三治、熊井信裕、熊谷富夫、

 熊谷享、小桜瑠美、小林竜輝、近藤聖史、桜井芳枝、桜井寛子、塩見順一、

 塩見敏子、篠原敏、氏野正己、志村宣子、秀野弘子、島村義郎、下橋邦彦、

 白石裕、菅井滋円、隅谷和哉、千田愛子、高山学、竹内寿子、竹中律子、武本美代子、

 竹馬芳樹、橘真由美、丹治千秋、田中一樹・美智子、田中薫、田辺彰、築田嘉代子、

 対馬昭、土田英雄、土屋安見、寺井治夫、高丸もと子、寺田俊夫、寺本尚宏、

寺西政行・愛子、寺西正砂・加代美、寺西昌康、寺西松太、寺西政弘、東島静・向日葵、

東野孝明、 中尾瑞枝、中川忠幸、中川徳子、長崎彩子、中嶌哲演、中松美智子、

長澤普天、 難波永次、西山好美、西海恒雄、西田靖弘、野田伊久代、野村ひろみ、

橋本法明、 羽部寿一、浜崎空、浜崎紀子、原一利、原 実、久岡由美子、人見嘉久彦、

深井治郎、 深谷純一、福島広和・和代、福島和子、福田守男、藤藁和子、藤野さち子、

古谷幸男、 升崎隆史、松井正、松岡洋子、松谷徳八、松田武夫、松村勝広、松本雅雄、

水江和代、 宮前利明、村田稔、森永眞、安川敏子、山岡弘征、山岸麻耶、山崎吉廣、

山本長太夫、 横尾幹江、吉井多美子、吉井弘至、吉尾真理子、吉田正喜、吉野彰一、

四方吉郎、和田宏隆、

 匿名の皆様、他皆様、

 *陣中御見舞有り難う御座いました*
 四方吉郎様・松井正様・中尾瑞枝様・稲田隆雄様・吉尾真理子様
熊井元信様・熊井三治様・熊井ツヤ様・寺西昌康様・寺西松太様
深井治郎様・吉井多美子様・寺西正砂様・秀野弘子様
大日本スクリーン労働組合様